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御影・住吉探訪

はじめに

はじめに

不動産購入におきましては、その地域の歴史を知ることも大切です。どのような開発がなされ、どのような変遷を経て村が、町が発展していったのか、どのような人物が、どのような著名人が住んでいたのか、興味深いものです。

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旧住吉村の住宅開発とその特徴

旧住吉村の住宅開発とその特徴

住宅地以前期(明治33年以前)

1874(明治7)年、住吉村には官営鉄道が開通し、住吉駅が設けられました。

官営鉄道開通から20年余り経った1897(明治30)年、住吉村は、田畑約90町、山林原野約400町、戸数500あまりの農村だったのです。

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草創期(明治33年~明治45年)

住吉村地図

1905(明治38)、阪神電鉄は、集落を結ぶ形で海岸に近い方に路線を開きます。住吉村には住吉駅と呉駅が設置されます。

阪神電鉄開通直前の1900(明治33)年、朝日新聞創業者のひとり村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を購入、住居を構えます。

1904(明治37)年には、住友銀行の初代支配人だった田辺貞吉が住吉村反高林、住友家の総理事を務めた鈴木馬左也が御影町郡家に住居を構えます。

村山らの動きに呼応する形で、1905(明治38)年、もしくは1907(明治40)年頃、後の日本住宅株式会社取締役社長、阿部元太郎と田辺貞吉は、住吉村観音林・反高林一帯を住吉村から坪7厘を20年契約で借り受け、1万坪あまりの山林を上下水道の完備した宅地に開発する事業に乗り出したのです。

1910(明治43)年、住吉村周辺住民から、幼稚園および小学校を設立して児童通学の便を計りたいとの声があがり、住民らによって計画されます。発起人のうち創立活動に携わったのは、田辺貞吉、才賀藤吉、弘世助太郎、平生釟三郎、生島永太郎、岸田杢、阿部元太郎、野口孫市、山口善三郎など、住吉村に早い時期に移住していた11名でした。

1911(明治44)年、村会の議決を経て、住吉村は村有地である住吉村反高林3,900坪あまりを無償で提供し、一方で寄付金を募り工費を得、阿部元太郎の監督のもと、建築家野口孫市の設計で私立甲南幼稚園が竣工したのです。

翌年には、財団法人甲南学園の設立が認可され、甲南小学校が開校したのです。これは、阪神間の最初の私立小学校でもあったのです。

甲南学園が設立された1912(明治45)年には、住民同士の交流や地域のまちづくりを考える場所が欲しいという声もあがり、阿部元太郎、田辺貞吉、野村元五郎、芝川栄助、静原治郎などが発起し、観音林倶楽部が設立されました。この設立にあたり、住吉村は甲南学園と同様、住吉村反高林の土地を無償提供したのでした。

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隆盛期(大正元年~昭和18年)

住吉村は、明治期に実業家たちの移住、阿部による宅地開発事業があり郊外住宅地の萌芽がみられます。

住吉村は、大正期に入ると耕地整理事業が行われます。耕地整理事業にかけられたのは33町で、阪神国道線以南でした。

一方、官営鉄道以北にあたる地区は、昔のあぜ道をそのままに市街地化したのです。耕地整理事業は、1917(大正6)年から1924(大正13)年にかけて行われ、完了した1924(大正13)年には、ただちに住宅地に転用されました。

1920(大正9)年、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開通したのでした。これより、大正期の住吉村周辺の地域は、多数の実業家が移り住み、その住宅の規模は大きく、生活の本拠地として機能していたことがわかります。

1927(昭和2)年には阪神国道電軌道が開通、人口も増大し続け郊外住宅地として隆盛期に入ったと言えます。

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阪神間の邸宅街

箕面有馬電軌による池田室町住宅の開発は1910(明治43)年でしたが、その約10年前の1900(明治33)年頃からにわかに関西財界人が次々と邸宅を構えはじめたのです。朝日新聞の創設者村山龍平が御影郡家の弓鶴羽神社横に数千坪という広大な土地を購い居を構えたのが嚆矢とされるのです。もっとも、その背景に、1874(明治7)年の官営鉄道東海道線大阪─神戸間の開通があることを忘れてはいけません。

同じ1905年には、のちに雲雀丘の住宅地開発を行う日本住宅株式会社社長阿部元太郎が住吉村の住吉川右岸観音林で住宅地の開発を進めましたが、これを機に同年関西の名だたる会社の社長・重役が邸宅敷地を取得していくことになったのです。同じ住吉川右岸の下流部に位置する反高林に、住友銀行初代支配人田辺貞吉(のちの住吉本邸、現在は住友不動産の中高層マンション)、郡家に住友家総理事鈴木馬左也、郡家兼安に岩井商店店主岩井藤次郎といったように、このリストはさらにつづくのです。

1908(明治41)年牛神に日本生命社長弘世助三郎邸
1912(明治45)年雨ノ神に大日本紡績創業者田代重右衛門邸
年代不明反高林に東洋紡績社長阿部房次郎邸
※おそらく小寺源吾邸より先
1912(大正元)年牛神前に東洋紡績社長小寺源吾邸
1921(大正10)年小林に野村財閥の野村徳七郎邸
大正中期観音林に鐘ヶ淵紡績社長武藤山治邸
1925(大正14)年先の田辺の敷地に住友本邸

1912(大正元)年には、阿部らによって観音林倶楽部が設立され、邸宅街のなかに親睦施設(現・住吉学園の敷地)ができたのです。

昭和に入りますと、次々と邸宅が建てられていきます。

1930(昭和5)年手崎に先の小寺源吾の養父で関西学院教授の小寺敬一郎邸
1932(昭和7)年上ノ山に大林組の大林義雄邸
観音林に野村銀行の野村元五郎邸
牛神東に住友義輝邸
手崎に武田薬品工業の武田長兵衛邸
1939(昭和14)年川向に弘海商店主弘海二三郎邸
1936(昭和11)年井手口に乾汽船社長の乾豊彦邸

1932(昭和7)年の建設ラッシュは特筆できるのです。このほか、安宅産業、伊藤忠、丸紅、兼松、江商などの有力商社の社長宅も建てられていったのです。

こうした邸宅の特長は、私鉄経営の住宅地や耕地整理事業による住宅地開発に比して、広い宅地面積を有していることにあります。

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住吉村

住吉村

住吉村(すみよしむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1950年(昭和25年)4月1日に神戸市と合併するまで存在した村である。村域は現在の東灘区住吉本町、住吉東町、住吉宮町、住吉南町、住吉浜町、住吉山手、渦森台、住吉台、鴨子ヶ原の一部および灘区六甲山町の一部に相当する。

1889年(明治22年)、政府より前年に公布された「市制・町村制」の施行に基づいて、現在の神戸市東灘区の前身である御影町、住吉村、魚崎村、本庄村、本山村の五つの町村が誕生した。

日本最大の経済都市であった大阪と東洋最大の港湾都市・神戸の中間に位置するこの地に、明治後期から昭和前期にかけて阪神間の富豪がこぞって大邸宅を建てたことから「日本一の長者村」と呼ばれていた。この住吉村の豪壮な邸宅群は、一つが数千坪から数万坪という単位で、芦屋市六麓荘町や大田区田園調布を遙かにしのぐスケールである。

現在も数多くの豪壮な邸宅が残る全国的にみても極めて裕福な土地柄である。阪神間モダニズムとして知られる華やかな生活スタイルは、この住吉界隈を発祥の地として現在まで受け継がれている。

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日本一の長者村、御影・住吉の成立

この地域が優れた住宅地として発展する原因となったのは、明治7年の官営鉄道の開通にともない設けられた住吉駅に起因する。

その具体的な出現は、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちが、大阪市内の居住環境の悪化にともない、郊外への転出を意識したことにはじまる。

  • 明治33年、朝日新聞創刊者の村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得する。
  • 明治38年には、住友銀行の初代支配人であった田辺貞吉が、住吉村反高林(たんたかばやし)に二千坪をこえる土地を取得し、住友家の総理事を務めた鈴木馬左也も明治38年御影町郡家にかなりの土地を取得している。
  • この動きに呼応するように阿部元太郎(のちの日本住宅株式会社社長)は、明治40年頃から住吉川に沿う観音林・反高林の土地の分譲を開始した。

ただ、この地域の土地所有権は住吉村に属して基本的に土地の分譲をしていなかったので、ほとんどは、地上権の分譲ではないのかと思われる。いずれにしてもこのような動きは、この地域の住宅地化を確実に進行させるものであった。

  • 阿部元太郎が分譲した反高林の土地の一部は、のちに東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。
  • さらに岩井商店主・岩井勝次郎も明治38年、御影町郡家兼安の土地を取得しており、大日本紡績創業者の田代重右衛門も同45年、住吉亜雨ノ神に居宅を構えることになった。

このような人々の土地取得の規模は、単位が一千坪前後を下らないものであり、各邸宅はいずれも豪壮な建築ばかりで、この地域にこれだけ密度が高く建つ例は、全国的にみても少ない。

このほか、この地域に建った邸宅としては、

  • 大阪茶臼山から移転してきた住友家本邸(住吉村反高林、大正14年)
  • 大日本紡績社長・小寺源吾邸(住吉村牛神前、大正元年)
  • 鐘紡社長・武藤山治邸(住吉村小坂山、大正中頃)
  • 日本生命創業者・弘世助三郎邸(住吉村牛神、明治41年)

などの和風邸宅があった。

さらに洋風邸宅を加えると、

  • 野村財閥の野村徳七邸(住吉村小林、大正10年)
  • 大林組社長・大林義雄邸(御影町上ノ山、昭和7年)
  • 野村銀行社長・野村元五郎邸(住吉村観音林、昭和7年)
  • 尼崎紡績の監査役で小寺源吾の養父であった小寺成蔵家を継いだ関西学院大学教授・小寺敬一郎邸(住吉村手崎、昭和5年)
  • 海運業の広海商事社長・広海二三郎邸(住吉村川向、昭和14年)
  • 乾汽船社長・乾新兵衛邸(住吉村井手口、昭和11年)
  • 大阪の大地主和田久左衛門邸(住吉村小坂山、昭和7年)
  • 武田薬品工業社長・武田長兵衛邸(住吉村手崎、昭和7年)
  • 住友義輝邸(住吉村手神東、昭和7年) 

など、いずれも密度の高い規模の大きな邸宅群でこれらが御影・住吉の緑の多い六甲山麓の恵まれた環境のなかに点在していた。

住吉川をはさんで隣接する場所には、久原財閥総帥で日立グループ創設者の久原房之助の大邸宅があった。これは敷地が三万坪をこえ、六甲山系から水を引き、庭内に池を配して六甲山より冷風を引き込んだ風洞、和洋の建物、茶室、宴会場、クジャクやフラミンゴを飼った鉄骨の大鳥籠など緑の木立に囲まれた贅を凝らした豪邸で、明治37年に建てられた。その立地場所からして御影・住吉の大邸宅地帯の一翼をになった。

このように、この地域は明治、大正、昭和戦前期にかけて、日本で最も豊かな富を形成していた紡績業関係会社、しかも日紡、東洋紡、鐘紡などそのなかでも大手に属する企業のオーナー・社長の私邸、三井、三菱とならぶ関西系財閥の住友の本家、重役の私邸、そのほかにも生命保険の筆頭であった日本生命、貿易関係で近畿に本拠をおく岩井産業、安宅産業、伊藤忠、丸紅、兼松、江商といった有力商社の社長宅、さらには野村財閥、製薬会社、不動産業などを営む船場の富商たちが競ってこの地に私邸を構えていったことがうかがえる。

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学校

阪神間が恵まれた住宅地として発展するうえで子女の教育施設の充実は、必須の要件であった。

阿部元太郎は、田辺貞吉、野口孫市らと相談し、住吉村反高林の村有地を借り受けて敷地とし、費用1万円余をもってまず、明治40年という早い時期に私立の甲南幼稚園を開園し、翌45年に小学校を創設した。発起人のうち創立活動に携わったのは、田辺貞吉・才賀藤吉・弘世助太郎・平生釟三郎・生島永太郎・岸田杢・阿部元太郎・野口孫市・山口善三郎・中島保之介・小林山郷の実業家11名である。

明治45年、財団法人甲南学園の設立が認可され、理事長には田辺、理事には平生・阿部・野口・才賀・小林の各氏が就任した。しかしまもなく財政難に陥いり、この時、平生が、上記の実業家たちのほか、久原房之助、進藤嘉三郎らの援助をえて、これを軌道にのせた。

平生釟三郎は、さらに安宅弥吉や二代目伊藤忠兵衛らの協力をえて、大正8年に甲南中学校をいまの甲南大学の地に開校、大正12年には尋常科(中学)4年、高等科3年の7年制の甲南高等学校へと発展させた。他方、甲南学園の理事のひとり、安宅弥吉の尽力で、甲南高等女学校(現在の甲南女子学園)が大正9年に設立され、理事長と校長はそれぞれ、甲南高校の田辺貞吉、小森慶助が兼任して発足した。

甲南小学校の卒業生の男子は甲南高校の尋常科に、女子は甲南高等女学校に、それぞれ無試験で入学し、一貫教育の実をあげた。

昭和2年には灘中学校も、地元の酒造業で灘の銘酒「白鶴」の醸造元である嘉納治兵衛らによって創立された。この嘉納治兵衛の私邸も御影山手に和風の大邸宅として建てられていた。

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観音林倶楽部

現在、甲南大学を経営している甲南学園の設立に尽力した田辺貞吉や野口孫市、阿部元太郎らは、コミュニティの大切さを思い、明治45年「観音林倶楽部」を設立し、日本における地域コミュニティやクラブサロン活動の先駆けとなった。発起人には他に、野村元五郎、芥川栄助、静藤治郎らがおり、座談会、講演会のほか、囲碁、玉突、謡曲、さらには夫人らの生け花、散髪もできた。

毎年正月には、新年の名刺交換会も開かれ、会員には久原房之助や安宅弥吉、二代目野村徳七らなど、当時の日本で最も豊かな富を形成していた財閥、企業の所有者、社長が名を連ねてこの倶楽部を中心に日本経済が動くと言われていた。

この倶楽部は、22年間続き、解消の際には会館が財団法人住吉学園に無償譲渡されている。なお、クラブハウスの建物は野口孫市自ら設計している。

観音林倶楽部外装

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病院

さらにこの地域で重要であったのは病院の問題で、医療機関の設置は、良好な住宅形成のうえで欠かせない要件であり、平生釟三郎もこの点に気づき、昭和9年御影の山麓台地に甲南病院が開設された。

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このようにこの地域の住宅環境の整備は著しく、その発展過程は、私鉄や土地会社の経営地とは異なった方法で進められた。

合併

街の復興で戦後の歴史が始まった五箇町村も、戦後まもなく神戸市との合併問題が表面化してそれぞれの町村で論争がおこった。

1948年(昭和23年)、神戸市は五箇町村に対して正式に合併を申し入れた。その後、芦屋市も同様に合併を同村に対して申し入れをおこなった。御影町、魚崎町は神戸市との合併に積極的であり、戦前は富裕で独立心の強かった住吉村も合併を考え始めていた。

しかし、神戸市との合併により地域の主体性が無くなることを心配した住民の中に、五箇町村が一緒になって新しい市(甲南市あるいは灘市)をつくるという構想が生まれ、一時はこれに芦屋市も加わる様子を見せて複雑化させた。

結局、1950年(昭和25年)4月1日、御影、魚崎、住吉の三箇町村が神戸市と合併することになったが、新設される区の名称について論争が巻き起こる。三箇町村はこのあたりが本来「灘」の中央部であることから、「灘区」にすべきであると主張したが、すでに神戸市は西隣りに「神戸市灘区」を持っていることから問題となった。そこで、この「灘区」を「西灘区」とし、こちらを「灘区」にすべきであるという意見が飛び出し、「本灘区」にせよという意見まで出たのである。

結局、神戸市長による一任で決まった名前が「灘区」の東ということから「東灘区」ということであった。

残る本庄、本山の両村でも住民投票やリコール運動の末、1950年(昭和25年)年10月10日、神戸市と合併し、現在の東灘区の区域が成立した。

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深田池

深田池

深田池

深田池は、もともと農村時代のため池である。深田池の名は、「フケ田」(ぬめぬめした田、泥深い田)になっていたところへ築かれたため池であることからきていると思われる。

付近には同様のため池がいくつか造られており、その1つは深田池に対して浅田池と呼ばれていた。

この湿地は、南北朝時代の武将赤松円心の家臣平野忠勝の居城であった平野城の東の防衛線として機能していたが、深田池一帯は公園に全面改修され、付近に残された閑静な散歩道とともに区民の憩いの場となっている。

深田池 深田池 深田池

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顕彰碑

この御影西墓地は、平成十二年(2000年)に再整備されるまでは、室町時代初頭に、御影に平野城を構えていた平野忠勝を祖とする。平野氏一党の専用墓地であった。大正八年(1919年)に阪急電車軌道敷設にあたり敷地を提供し、北側に現在規模に縮小された。平野家本家の墓は、2000年の再整備時に、中勝寺境内墓地に移された。

中勝寺には平野忠勝が祀られており、寺近くには、平野氏旧屋敷の的場跡に「平野備前守忠勝参墓」がある。弓弦羽神社参道入り口にある水神宮は、文政十二年(1829年)に私費を投じて住吉川から灌漑用水を引いた、平野延輝を祀ったものである。

平野氏の祖、平野忠勝は源三位頼政公の子孫で、正平年間(1346年)御影の上の山(現、御影北小学校付近)の平野城(御影村城)を構えたが、足利尊氏とその弟との争いで起きた観応の戦乱(1351年)に巻き込まれて敗れた後、郡家村(御影町郡家)に退いて農業に従事した。平野家は、その後江戸時代に、旧尼崎領内上席の大庄屋職となり、東は莵原郡津知村(現、芦屋市最西部)より、西は八部郡坂本村(現、神戸市兵庫区)に至る二十二個村を支配した。

『現地案内板』より

顕彰碑

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阪急神戸線「御影」駅付近に平野城があったことは知っていたのですが、その位置まではよくわかっていませんでした。

時間が空いたのでどこか行ける城はないかなぁと、なんとなく阪急の普通電車に乗り、梅田から三宮に向かっている途中でした。ふと北側に大きな墓石で「平野家之墓」という文字が見えました。これは! となんとなくピンと来たのでそのまま御影駅を下車、その墓地を目指しました。

墓には上記「顕彰碑」の文章と横に平野氏の墓石がありました。なんとなくピンときた勘がうまく当たり、平野城が現在の御影北小学校あたりだわかったときは感動ものでした(笑)。

そこから西へと歩いていく中で深田池公園にも立ち寄りました。するとその北側隅にも平野城にふれた案内板がありました。地図で見ますと御影駅北側を東西に長く伸びるような少し高台にあった城館だったのでしょうか。

現在は公園、マンションなどが建ち往時を偲ぶことはできませんが、私のように偶然たどりつくこともできますので不思議なものを感じずにはいられませんでした。

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南北朝時代の武将赤松氏家臣の城跡

南北朝時代の武将赤松氏家臣の城跡

阪急神戸線の御影駅の北側改札口を出て、線路沿いに西側へ進んだところにある御影北小学校が平野城の城跡推定地とされます。

御影駅の北側すぐのところにある深田池は平野城の堀の一つとして活躍した名残とも伝わりますが、この城の詳細はあまりわかってないようです。観応年間(1350~52)に、南北朝の武将・赤松則村(別称・円心※後醍醐天皇方に当初はつくも、晩年は足利尊氏方の武将として活躍した室町幕府下の守護大名)の家臣、平野忠勝の居城だったと伝わります。

平野城があったとされる時代は、足利幕府初期の頃の内紛である「観応の擾乱」の時代。平野氏はこの戦いに敗れ、その後この城がどんな運命を辿っていったのかは歴史の闇に眠ったままのようです。

さて、現在の城跡推定地ですが、とにかく斜度の強い坂道の途中に小学校は建設されており、北側の墓地をグルっと一周してみましたが、往時は完全な山城として活躍してことが想像できる場所です。

また西側には谷と言える様な高さのある、川が流れここが軍事戦略上、重要なポイントであったことが即座に理解できる場所です。

ただ、残念ながら遺構はありませんが、冒頭に触れた深田池の北側の出入り口にある案内板には、この平野城についても多少触れられているので、合わせて訪問したいスポットですね。

辺りは静かな住宅街で特に観光スポットが他にあるわけではありませんが、いわゆる「エキチカ」で、大阪梅田方面、神戸三宮方面両方からアクセスしやすい場所ですので、近隣の他の城跡とまとめて訪問したい城跡です。

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